世界でもっとも知られた日本人。
水木一郎についてさらに迫る今夜のテーマは「おいたち」です。
誰しも生まれたときは赤ちゃんからスタート。
はたしてどんな少年時代、どんな感情を持ってすごしていたのか。
過去があるから今があるのは、どんな人間でも一緒です。
さっそく見ていきましょう。
水木一郎は1948年、世田谷で生まれました。
実家は元レコード店。母親はジャズが大好きという環境で、子守唄のかわりにジャズを聴いていた彼は、なんと5歳で歌手を目指すことを決めます。
毎日毎日、近所の公園で発声練習。
中学生のころには家にあったテープレコーダーに自分の歌声を録音し、大好きなビング・クロスビー、フランク・シナトラ、ナット・キング・コールなどの歌と自分の歌を比較。
自分の歌のどこが違うのか。
発音、音程、スロー再生を繰り返しながら、ブレスやビブラートのかけ方などを調べ、緻密な研究を重ねました。
当時はアメリカン・ポップスを日本流にアレンジしてカバーする曲が大流行しましたが、水木があこがれたのはシナトラのように映画の主題歌を歌える歌手になることでした。
「アメリカ映画の主題歌を日本語で歌ったりしてデビューしている人たちを見て、ほんとにうらやましいと思っていました」
やがてジャズ喫茶の舞台に立つようになった水木は、作曲家の和田香苗の門下生となって本格的なレッスンを受けるようになります。
音程とリズムが正確なだけでは認めてもらえず、求められたのは徹底的な表現力でした。
たとえばのれん。
そののれんは大衆居酒屋のものなのか、はたまた京都の小料理屋のものなのか。
歌を聴いている人が創造できるように歌わなければなりません。
「これはものすごく難しいんですよ。音楽だと楽器を使って京都っぽさを出すこともできるけど、言葉だけでどう持っていくか……だから、歌詞の一言一言をとにかく考えて考えて、思いをこめて歌うしかない。そういうことばかりやってましたね」
このような厳しいレッスンを受けて、ついに20歳のときにデビューを迎えることになります。
順風満帆にいくはずだったデビューも、まさかの挫折が待っていました。
次回はデビュー後の苦悩、転機、についてお話します。
ぜひお付き合いください。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました!